◆「齊藤諒の生きる力」本日発売!!
2017/9/1 ブログより
本日、「齊藤諒の生きる力 四肢麻痺と人工呼吸器装着の僕が伝えたいこと」が、全国書店にて発売されます!!amazonでもお買い求めできます!
運命を変えて、天命を生きる!
16歳という若さで四肢麻痺となった著者が綴る、渾身のノンフィクション。
「死んだましだ!だからといって自分で死ぬこともできない・・・・・・この前まで、大好きな野球に明け暮れていた自分が、こんな身体になるなんて!」
絶望の淵から救ってくれた「聖書」の教え。
苦しみの中で希望を得た著者が今、この時代を生きる人たちにもっとも伝えたいことを書く。
著者の齊藤諒兄弟からです。
待ちに待っていたこの日がいよいよ来ました。
イエス様は僕にとって新たな一歩を与えてくれました。
マタイによる福音書5章14節~16節
あなたがたは、世の光である。山の上にある町は隠れることができない。また、あかりをつけて、それを枡の下におく者はいない。むしろ燭台の上において、家の中のすべてのものを照させるのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かし、そして、人々があなたがたのよいおこないを見て、天にいますあなたがたの父をあがめるようにしなさい。
聖書は真っ暗だった僕の心に光を与えてくれました。
今度は僕が聖書の光を伝え広げていきます。
イエス様、文芸社の皆さん、ぶどうの木の神の家族たちに、感謝です。ありがとうございました。
これからも感謝し福音していきます。
全ての栄光をイエス様に帰して。
アーメン。
ぶどうの木10年目最後の日という素晴らしいタイミングで、イエス様はこの本を出版させて下さいました。
読者の皆さんに「生きる力」を与える一冊です!!
ぜひ、ご一読ください。
イザヤ12:3~6
あなたがたは喜びをもって、救の井戸から水をくむ。その日、あなたがたは言う、「主に感謝せよ。そのみ名を呼べ。そのみわざをもろもろの民の中につたえよ。そのみ名をあがむべきことを語りつげよ。主をほめうたえ。主はそのみわざを、みごとになし遂げられたから。これを全地に宣べ伝えよ。シオンに住む者よ、声をあげて、喜びうたえ。イスラエルの聖者はあなたがたのうちで大いなる者だから」。
アーメン!
神の御心を行ない、神に忌み嫌われるものは捨て去れ!
2026/2/2ブログより
holygirlです。
先週、聖霊の導きによって与えられた動画を通して、日本とユダヤとの関係、天皇とイエス・キリストとの繋がり、天照大御神(神話)と聖書(イエス・キリスト)の共通点から、天照大御神は実はイエス・キリストであったという事など、ここまで関連しているのか!という事実の数々を知ることになりました。特に、天皇が即位後に初めて行う行事である大嘗祭(天皇が新穀を天地の神に供え、自らもこれを食する祭事)は、イエス・キリストが十字架刑の前に行なった最後の晩餐、十字架刑、死からの復活を儀式として行っているという事には驚き、後醍醐天皇の時代には、十字架刑の際の手の釘あとを再現して、実際に後醍醐天皇の手形の真ん中に釘穴が開いているという証拠もありました。
ユダヤ文化、伝統が、5世紀から6世紀にかけて秦氏(ユダヤ王族の末裔)によって日本に伝えられました。しかし、残念ながら、日本に残ったのは霊・魂がない儀式だけです。伊勢神宮、稲荷神社はじめ、日本の神社の中には聖書の神、イエス・キリストを祀っているところが多々ありますが、日本人は知らずに拝んできました。日ユ同祖論が言われては否定もされてきましたが、今年は日本とユダヤとの関係が全て明らかにされることを期待しています。そうすれば、たくさんの日本人が自分たちが拝んできたもの、信じてきたものを知り、救われ、日本の土台が聖書になるでしょう。日本がそうなるように、私たちが働き人となっていくよう語られ、日本人が本当の神を畏れる2月の始まり、ビリー・ブリム女史の預言通り、「さぁ、定められた位置につくがよい!」と言われた2月1日の集会となりました。
使徒行伝17:22~31
そこでパウロは、アレオパゴスの評議所のまん中に立って言った。 「アテネの人たちよ、あなたがたは、あらゆる点において、すこぶる宗教心に富んでおられると、わたしは見ている。 実は、わたしが道を通りながら、あなたがたの拝むいろいろなものを、よく見ているうちに、『知られない神に』と刻まれた祭壇もあるのに気がついた。そこで、あなたがたが知らずに拝んでいるものを、いま知らせてあげよう。 この世界と、その中にある万物とを造った神は、天地の主であるのだから、手で造った宮などにはお住みにならない。 また、何か不足でもしておるかのように、人の手によって仕えられる必要もない。神は、すべての人々に命と息と万物とを与え、 また、ひとりの人から、あらゆる民族を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに時代を区分し、国土の境界を定めて下さったのである。 こうして、人々が熱心に追い求めて捜しさえすれば、神を見いだせるようにして下さった。事実、神はわれわれひとりびとりから遠く離れておいでになるのではない。 われわれは神のうちに生き、動き、存在しているからである。あなたがたのある詩人たちも言ったように、 『われわれも、確かにその子孫である』。 このように、われわれは神の子孫なのであるから、神たる者を、人間の技巧や空想で金や銀や石などに彫り付けたものと同じと、見なすべきではない。 神は、このような無知の時代を、これまでは見過ごしにされていたが、今はどこにおる人でも、みな悔い改めなければならないことを命じておられる。 神は、義をもってこの世界をさばくためその日を定め、お選びになったかたによってそれをなし遂げようとされている。すなわち、このかたを死人の中からよみがえらせ、その確証をすべての人に示されたのである」。
アーメン。
人間は、霊・魂・体で成り立っています。この世の医学、教育は、魂と体だけを診て、そこに必要な治療や教えをしますが、本来人間が人間らしく生きるためには、最初の人間であるアダムとエバが犯した罪によって死んでいた霊が、イエス・キリストによって生き返っているかが重要です。霊が死んだまま、魂と体だけで生きているこの世の人々は皆、見るもの、聞くもの、食べるものに毒され、鈍感になっています。例えば、もともと神が人間に対して良いと決めた音楽の周波数があるにも関わらず、音楽業界は絶対にその周波数を使わないのだそうです。サタンの支配下であるこの世は、体を壊し、まっとうな判断ができないようにさせるモノで溢れています。皆が健康で生き生きしていたら、儲からない業種がたくさんあるからです。
そして、この世界は見える現実が1割であり、聖霊対悪霊の戦いが繰り広げられている霊の世界が9割を占めています。霊の世界は、救われて霊がよみがえり、助け主聖霊をいただいたクリスチャンにだけ見え、その霊の世界における戦いに参戦し、勝利していくことができます。救われていなければ、ただただ無防備に悪霊の攻撃にあい、サタンの策略通り大事なものを盗まれ、殺され、滅ぼされる人生です。だからこそ、人間は、自分で自分を律して本当の神・聖書の神に近づいていかなければならないと語られました。
人間は本来霊の生き物です。私たちクリスチャンはそれを自覚して生きなければならないことを再認識しました。クリスチャンでありながら、霊性を守る事よりも、肉の欲に流され、神から遠ざかっていないでしょうか?表層にある現実問題や、自分の感情、体にあらわれる状態に応じて対処していないでしょうか?事がうまく行かない、停滞して進んでいかない事があるなら、なかなか治らない身体の状態があるなら、神に言われている事、やるべきことを忠実にやっているか、日常生活の中で悪霊に門を開いていないか、悪霊の攻撃を受けていないか、まず自分を吟味しなければならないと語られました。
自ら神から遠ざかるのであれば、それは自分の意志、自業自得ですが、“私は神を信じ、神と繋がっている”と思っていても、神側がすでに遠ざかってしまっているとするなら、恐ろしいことです。今週は、民数記14章からみことばが与えられ、そのようなクリスチャンになってしまっていないか警告を受けました。
民数記14:17〜38
どうぞ、あなたが約束されたように、いま主の大いなる力を現してください。あなたはかつて、『主は怒ることおそく、いつくしみに富み、罪ととがをゆるす者、しかし、罰すべき者は、決してゆるさず、父の罪を子に報いて、三、四代に及ぼす者である』と言われました。どうぞ、あなたの大いなるいつくしみによって、エジプトからこのかた、今にいたるまで、この民をゆるされたように、この民の罪をおゆるしください」。
主は言われた、「わたしはあなたの言葉のとおりにゆるそう。しかし、わたしは生きている。また主の栄光が、全世界に満ちている。わたしの栄光と、わたしがエジプトと荒野で行ったしるしを見ながら、このように十度もわたしを試みて、わたしの声に聞きしたがわなかった人々はひとりも、 わたしがかつて彼らの先祖たちに与えると誓った地を見ないであろう。またわたしを侮った人々も、それを見ないであろう。ただし、わたしのしもべカレブは違った心をもっていて、わたしに完全に従ったので、わたしは彼が行ってきた地に彼を導き入れるであろう。彼の子孫はそれを所有するにいたるであろう。谷にはアマレクびととカナンびとが住んでいるから、あなたがたは、あす、身をめぐらして紅海の道を荒野へ進みなさい」。
主はモーセとアロンに言われた、「わたしにむかってつぶやくこの悪い会衆をいつまで忍ぶことができようか。わたしはイスラエルの人々が、わたしにむかってつぶやくのを聞いた。あなたは彼らに言いなさい、『主は言われる、「わたしは生きている。あなたがたが、わたしの耳に語ったように、わたしはあなたがたにするであろう。あなたがたは死体となって、この荒野に倒れるであろう。あなたがたのうち、わたしにむかってつぶやいた者、すなわち、すべて数えられた二十歳以上の者はみな倒れるであろう。 エフンネの子カレブと、ヌンの子ヨシュアのほかは、わたしがかつて、あなたがたを住まわせようと、手をあげて誓った地に、はいることができないであろう。しかし、あなたがたが、えじきになるであろうと言ったあなたがたの子供は、わたしが導いて、はいるであろう。彼らはあなたがたが、いやしめた地を知るようになるであろう。しかしあなたがたは死体となってこの荒野に倒れるであろう。あなたがたの子たちは、あなたがたの死体が荒野に朽ち果てるまで四十年のあいだ、荒野で羊飼となり、あなたがたの不信の罪を負うであろう。あなたがたは、かの地を探った四十日の日数にしたがい、その一日を一年として、四十年のあいだ、自分の罪を負い、わたしがあなたがたを遠ざかったことを知るであろう」。主なるわたしがこれを言う。わたしは必ずわたしに逆らって集まったこの悪い会衆に、これをことごとく行うであろう。彼らはこの荒野に朽ち、ここで死ぬであろう』」。
こうして、モーセにつかわされ、かの地を探りに行き、帰ってきて、その地を悪く言い、全会衆を、モーセにむかって、つぶやかせた人々、すなわち、その地を悪く言いふらした人々は、疫病にかかって主の前に死んだが、その地を探りに行った人々のうち、ヌンの子ヨシュアと、エフンネの子カレブとは生き残った。
アーメン。
まず、クリスチャン以前に、私たち人間の血の中には3代4代に及ぶ罪の血が流れています。神は、怒ることおそく、いつくしみに富み、罪ととがをゆるす者ですが、罰すべき者は決してゆるさず、父の罪を子に報いて、3、4代に及ぼすとおっしゃっています。みことばから、刻んだ像を造り、それを拝む者、仕える者、十度も神が“私はいる”と示したにもかかわらず、神を試みて自分の握っているものを捨てられなかった人、神にむかって文句つぶやく人は、神が約束してくださった地に入ることはできませんでした。世の中的に「良い人」と賞賛されている人や、幼い子どもが、事故や事件に巻き込まれたり、命を落とすと、「なぜあの人が?あんなに小さい子がどうして?」と思う事がありますが、その人が、その子が悪いのか・・・もちろんその人自身の問題もありますが、父の罪、3代4代前にさかのぼった先祖の罪を子が刈り取っているという事も聖書は教えています。
逆に、自由奔放に生きているように見えても、なぜか守られ、生かされている人、教会に行ったことがあったり、福音を聞いた事がある人の先祖を見た時、何代前かにクリスチャンがいたという事もあります。先祖が神の声に忠実に聞き従ったのであれば、その祝福は千代に及ぶというのも神の契約なのです。民数記のみことばからも、今を生きる自分の代で、心を入れ替えて神に聞き従い、自分が変わるなら、祝福は子孫に及ぶと書かれています。罪を犯し神から遠ざかったと同時に神に見放される人間と、自分を律し、神に近づき、神と共に歩む人間が、いつの時代にもいるのです。
この3、4代に及ぶ罪の血を断ち切る唯一の方法が、神の子であるイエス様を救い主として受け入れ救われることです。イエス様に救われることによって、先祖代々の罪の血は断たれ、“個”として生きることができるのです。旧約の時代の神と人間の関係は、罪が覚えられたまま、直接裁きを受ける恐ろしいものでしたが、私たちは、イエス様が十字架刑で贖いの血を流された後の新約時代に生き、聖霊の助けによって神のみ旨が分かり、行なえるクリスチャンとされました。ならば、み旨を行い続けて生きなければなりません。救われる前の自分から、見るもの、聞く音楽、身に付けるもの、好み、外見など全てが真反対に変わり、生きていることが分かったら、真のクリスチャンとなれた証です。しかし、いまだに救われる前と同じものに心を惹かれ、救われていない家族、身内の声(誘惑)に流されているなら、神の声を聞けていないやぎとなっているのだと語られました。夫婦、親子、家族であっても、個人的な神です。せっかく救われ、“個”として祝福を受ける人生を歩み出したにもかかわらず、自ら戻っていくなら、また3代、4代の罪を負うことになります。そうではなく、自分がしっかりと立ち上がって、神の言に聞き従わない人たちのためにとりなし祈るならば、自分自身を救い、周りも救うことになるのだと語られました。
さらに、イエス様から戒められることがないどころか、何も言われないと感じている時、それは安全で正しい歩きをしているのではありません。不信の罪ゆえにすでに主が遠ざかっているのだと語られました。日常生活をイエス様のみことばに聞き従って送っているのか、180度変えられたと言えるのか、自分の霊は分かっているでしょう。いい加減な歩きをして、集会に来ても、自分事として牧師のメッセージや兄弟姉妹の証を聞けていないのであれば、自称クリスチャンであって、真のクリスチャンではありません。
また、人の証や、過去に自分が頂いた証をマニュアル化して、「あの兄弟もこのような導きだったから、私もこの歩みで大丈夫!」「前もこうだったから、今回もこれは祝福だ!」と判断しているなら、霊の世界が解っておらず、聖霊の働きも、神が一つの方法、二つの方法によって語ってくださっていることも悟れない歩みになっていくのだと語られました。私たちが信じる神は生きておられるのですから、一つ一つ、一回一回、御心を聞いて歩んでいくこと、そのためには、何も握らず、心を広くして聞く姿勢、きよさが求められているのだと語られました。
霊の動きを見極めて行動するなら、主が近づき、聖霊が働いてくださいます。しかし、周りと自分を比べて、人にどう思われるかばかりを考え、“どうせ私なんか・・・”と現状にすねて一歩引き、はすから見ていたら、聖霊は止まってしまいます。人にどう思われるかではなく、神にどう思われるかを考え、神を恐れて、前向きに「変わりたい!聞きたい!従いたい!」という姿勢を持っているなら、他者は関係ありません。その心を神が見て祝福してくださり、聖霊が働き、理解力も与えられていきます。
今週の集会では、人にどう思われるか、どう見られるかばかりを考えるプライド、見栄によって、外見的なものばかりに重きを置いてきたA姉妹が、そこから解放され、変えられた証をしてくれました。
A姉妹は、昨年の集会で多額の借金返済が追い付いていないことを明るみにし、皆の前で悔い改めました。現実逃避して、どこにいくら借りているかも分からず、“生きているのがしんどい・・・自殺したい”と思ってきましたが、立ち上がってまずは現実を知るために計算したところ、カード会社6社に総額266万円の借金を抱えていることが分かりました。
A姉妹に多額の借金をつくらせたのは、目の欲、肉の欲、持ち物の誇りでした。ファッションを握り、着飾ることで膨れ上がっていった借金でした。どうしてここまで借金が膨れ上がってしまったのかも尋ねると、家庭環境が嫌で、上京してあこがれの芸能人が経営する店に就職したものの、外から見えていた様子と中の様子は全く違い、人間関係が悪くいじめられ、生活の足しにもってきた16万円の手持ち金も盗まれ、3か月でやめたところから、大きく狂い始めたそうです。次に、就職したところは2か月でやめ、ストレスで衝動買いが始まりました。自殺を考えるようになり、自殺をしようと線路に飛び降りようとして、最後の1歩を踏み出さずにとどまったこともあったそうです。その後、勤めた化粧品の職場は人間関係にも恵まれ4年働きましたが、キラキラして見える周りの人にあこがれて、きれいでなければならない、きれいな所に住んでいなければならないと思い、同じようになれると勘違いして、お金遣いがどんどん荒くなっていきました。返済ができなければ、別のカード会社からお金を借りました。欲しいものを購入する衝動はおさえられず、借りることが当たり前になって繰り返し、6社に至りました。そんな彼女をイエス様はあわれみ、選び、浜松に導かれました。交際相手の転勤先が浜松となり、縁もゆかりもないこの浜松についてきたのです。そして、牧師の次女と新たな職場で出会いました。次女に神の栄光を見ていたA姉妹は、福音を聞いて救われたのです。
借金返済の肩代わりを両親にお願いしましたが、そんな余裕はなく、A姉妹は少しでも収入を増やせるように副業として本業が休みの日にはバイトをし、返済計画を立てて、利子で膨らんでいく6社分の借金をまず一括で返すために、一つの銀行から総額分を借りることにしました。仮申請は通りましたが、6年かけての返済となりました。本当は2、3年で完済したいと思いながらも、今の状況では6年・・・返済計画を聞いた姉妹たちからは、固定費を下げたらどうかという提案がありました。A姉妹は、7万7千円の家賃を支払っていました。東京から浜松に来るきっかけとなった交際相手と別れた際、交際相手が浜松にまで連れてきてしまったことに責任を感じ、自分が家賃を支払うからと選んだ住まいでした。当時、A姉妹は自分の収入も、借金があることも彼には話せておらず、いずれ自分が支払うことになるであろう7万7千円の家賃は重いと思いながらも、それも言えずに引っ越すことになりました。救われたあと、元交際相手に家賃を支払ってもらって住み続けるのは霊的に違うと指摘され、引っ越しや実家に戻ることも言われましたが、約1年間支払い続けてきました。1年で92万4千円・・・借金返済にあてることができていたはずのお金を、プライドで無駄にしました。
姉妹たちにもっと安い家に引っ越すことを言われ、A姉妹はその通りだという霊の思いと、こんなきれいな場所から引っ越すのは嫌だ!安い家賃の家に住んでいたらどう思われるか、不動産に現状を伝えてお願いするのも恥ずかしいという肉の思いの葛藤が生じ、自分にとって最善の道を教え助言してくれた姉妹を裁き、悶々とした時間をしばらく過ごしていました。将来への不安、引っ越し費用はどうするか、一人でどうやって引っ越すのか・・・引っ越しに対して前向きになれない中、姉妹に紹介された不動産の担当者には、5万8千円の物件を提示され、そこに決めようとしていましたが、初期費用もかかり、銀行への返済期間は6年から5年になるだけで、これで良いのかと思っていました。本当は2万円~3万円の家賃であれば気が楽でしたが、プライドが邪魔してそれを言うのも恥ずかしく、魂の状態(思い煩い)が体にあらわれ、奥歯がズキズキ痛むようになりました。
そんな中で、A姉妹の不動産担当者が、B姉妹が経営する美容院にカットをしにきました。B姉妹の美容院も、同じ担当者が見つけてくれ、福音をし、関係が続いていました。B姉妹が、「A姉妹の物件は見つかりましたか?」と尋ねると、担当者が「5万8千円の物件に決まりそうです」と言ったので、B姉妹は思わず「高い!」と言ってしまったそうです。そこから、「え?どういう事ですか?」と担当者に聞かれ、B姉妹はA姉妹の現状を話すことになりました。担当者からは、給料と借金返済から考えて、5万8千円のアパートでは無理があること、社会的信用がなく、大手の不動産会社の審査は通りにくいこと、通ったとしても住み続けることが大変になるのは他者のケースからも目に見えていること、一番良いのは、実家に戻ることか、それが無理なら2万~3万の家賃の家に住むことであると親身なアドバイスがありました。A姉妹のプライベートな話をしてしまったB姉妹は、すぐに牧師に報告しました。それを受けた牧師は、A姉妹に聖霊の導きによるB姉妹と担当者の会話の内容を伝えることにしました。「電話で話がしたい」と牧師が次女を通して連絡をすると、A姉妹は「え!?何?恐い・・・何を言われるのだろう」という強迫観念におそわれました。最後は自分の意志であるにもかかわらず、牧師に言われたら、嫌なこともやらなければならないとサタンに思わされていたのです。A姉妹は、牧師の次女に「それは牧師を裁いているでしょ!牧師はイエス様が何とおっしゃっているのかを伝えて道を示してくださる器だよ」と訓戒され、その晩牧師と電話で交わることになりました。
最初はプライドから本音が言えませんでしたが、「本当にそう思っているの?」と一緒に話を聞いていた次女に指摘されながら、徐々に本音を語り出し、牧師を通して「身の丈を知りなさいとイエス様はおっしゃっている」と語られたA姉妹は、「2~3万のアパートならほっとする・・・」と言葉にし、重荷を降ろすことができました。牧師との交わりのあと、ずっと抱えていた歯の痛みが一瞬にしてなくなったのが分かりました。
翌日、不動産の担当者にも正直に自分の現状を伝えたところ、「ボロボロだけど、2万円の物件はどうか?」と提案され、A姉妹は「ありがたいです!」と返事をしました。身の丈を知り、心が変わった証拠でした。神はその心を見て良しとされ、聖霊が動き出しました。
担当者が最初に提案した2万円の物件は、住んでいる人たちの経済状況や治安の面でA姉妹には進められないという事になり、3万円代のアパートの資料を3件送ってくれました。A姉妹は今の職場で働く前に、派遣社員として不動産会社に勤務していた事があり、内部事情も詳しく、資料を見て、「見たことがある物件だ」と思うものもありました。3件のうち、以前資料を見て省いていた物件もありましたが、結果、他2件は臭かったり虫が死んでいたりとギョッとする部屋だったため(虫は掃除して取り除けばよいのですが)、その物件が一番良い環境・立地であることが分かり、そこに決めることにしました。家賃は3万920円・・・希望通り3年での完済が叶うことになり、牧師から、「392、みくに(御国)が来ましたね!」と語られました。祈っていた兄弟姉妹たちの霊も喜びました。
1月末に今の住まいの退去願いをしたので、本来契約上では3月にしか引っ越しはできないはずでしたが、神の好意が働き、特別に2月末に退去し、引っ越しできることになりました。
全ては、A姉妹の心を見ておられる神のなさり方でした。ぶどうの木は当面の生活費や集会に来るための交通費の支援はしていましたが、今回借金返済のためのお金を貸すことはできませんでした。牧師は何度も善をなす力があるのだから、助けてあげようと思うのですが、イエス様はA姉妹のプライドのパン種を見抜いておられたのです。まだ生活を見直してやれる事がある!プライド、見栄、外見的なものを握っていたら、神からの好意を得られず、身を滅ぼすだけであることを、神は徹底的にA姉妹に教え、訓練されました。実際、プライドや見栄は自意識過剰の自己満足であり、誰もそこまで関心をもって見てはいないのがこの世です。
牧師は今回のA姉妹の一件から、学生時代に聞いたフランスの文学作品を思い出し、話してくださいました。
ある女性がどうしても高価なネックレスを身に付けていきたい場所があり、友達から300万円のネックレスを借りたそうです。しかし、女性はその場所でネックレスをなくしてしまいました。女性はそのネックレス代の300万円を弁償するために、身を隠して昼夜働きました。そして、ようやく300万円を稼ぐことができ、友達に事情を話して300万円を返済したのですが、友達からは、「あれはうちの家宝だから、あなたにはイミテーション(模造品)を貸しただけだったのに」と言われたのです。
これは見栄を張ることの無意味さを教訓として教える話です。プライド、見栄は独り善がりで何の役にも立ちません。神が創造してくださったありのままの自分を大切にしなければならないと語られました。
神は1つ1つ道を示してくださいます。その時に、主に信頼して「やります!従います!」と言えるか、「ちょっと待ってください!それは無理です!」と言って逃げ、断るのか・・・前者になれたら、全ての重荷(現実問題)は取り除かれ、神が定めた祝福の道を歩むことができます。神は祈りを聞いてくださるだけではなく、愛の鞭とつえをもって正しい道に導いて下さる方です。神の祝福、聖霊の働きを止めているのは自分自身、自分の肉の思いであることを忘れずに、主を恐れ、誠実と潔白(きよさ)をもって、2月も歩んでいけたことを感謝して祈ります!
詩篇25:1〜22
主よ、わが魂はあなたを仰ぎ望みます。わが神よ、わたしはあなたに信頼します。どうか、わたしをはずかしめず、わたしの敵を勝ち誇らせないでください。すべてあなたを待ち望む者をはずかしめず、みだりに信義にそむく者をはずかしめてください。主よ、あなたの大路をわたしに知らせ、 あなたの道をわたしに教えてください。あなたのまことをもって、わたしを導き、 わたしを教えてください。あなたはわが救の神です。わたしはひねもすあなたを待ち望みます。主よ、あなたのあわれみと、いつくしみとを 思い出してください。これはいにしえから絶えることがなかったのです。わたしの若き時の罪と、とがとを 思い出さないでください。主よ、あなたの恵みのゆえに、 あなたのいつくしみにしたがって、 わたしを思い出してください。主は恵みふかく、かつ正しくいらせられる。それゆえ、主は道を罪びとに教え、 へりくだる者を公義に導き、 へりくだる者にその道を教えられる。主のすべての道はその契約とあかしとを守る者には いつくしみであり、まことである。主よ、み名のために、わたしの罪をおゆるしください。 わたしの罪は大きいのです。 主を恐れる人はだれか。 主はその選ぶべき道をその人に教えられる。彼はみずからさいわいに住まい、 そのすえは地を継ぐであろう。 主の親しみは主をおそれる者のためにあり、 主はその契約を彼らに知らせられる。わたしの目は常に主に向かっている。主はわたしの足を網から取り出されるからである。わたしをかえりみ、わたしをあわれんでください。わたしはひとりわびしく苦しんでいるのです。 わたしの心の悩みをゆるめ、 わたしを苦しみから引き出してください。 わたしの苦しみ悩みをかえりみ、わたしのすべての罪をおゆるしください。わたしの敵がいかに多く、かつ激しい憎しみをもって わたしを憎んでいるかをごらんください。わたしの魂を守り、わたしをお助けください。わたしをはずかしめないでください。わたしはあなたに寄り頼んでいます。どうか、誠実と潔白とが、 わたしを守ってくれるように。 わたしはあなたを待ち望んでいます。 神よ、イスラエルをあがない、すべての悩みから救いだしてください。
詩篇26:1〜12
主よ、わたしをさばいてください。わたしは誠実に歩み、 迷うことなく主に信頼しています。 主よ、わたしをためし、わたしを試み、 わたしの心と思いとを練りきよめてください。あなたのいつくしみはわたしの目の前にあり、 わたしはあなたのまことによって歩みました。わたしは偽る人々と共にすわらず、 偽善者と交わらず、 悪を行う者のつどいを憎み、 悪しき者と共にすわることをしません。 主よ、わたしは手を洗って、罪のないことを示し、 あなたの祭壇をめぐって、 感謝の歌を声高くうたい、 あなたのくすしきみわざをことごとくのべ伝えます。主よ、わたしはあなたの住まわれる家と、 あなたの栄光のとどまる所とを愛します。 どうか、わたしを罪びとと共に、 わたしのいのちを、血を流す人々と共に、 取り去らないでください。彼らの手には悪い企てがあり、彼らの右の手は、まいないで満ちています。しかしわたしは誠実に歩みます。 わたしをあがない、わたしをあわれんでください。わたしの足は平らかな所に立っています。 わたしは会衆のなかで主をたたえましょう。
アーメン。
